私小説 / 桜灯舎
スクロールして読む →改札を通り、列車が揺れるたびに、日常が遠ざかっていく。
車窓から見えるビル群が、徐々に深い緑の重なりへと姿を変えていく。
ポケットの中で、数分おきに振動を繰り返すスマートフォン。
その横のボタンを、長く、静かに押し込んだ。
ゆっくりと消えていく液晶の黒い画面に、私のぼんやりとした輪郭が映り、やがて完全に闇と同化した。
ここから先は、もう誰のものでもない、私だけの時間だ。
森の奥、無垢の木で作られた小さな平屋にたどり着いた頃には、静かな雨が降り始めていた。
屋根を叩く規則的な雨音が、部屋全体を静かに満たしていく。
錆びた真鍮のヤカンに、近くの湧き水をたっぷりと注ぎ、火にかける。
シュンシュンと小さな音が響き始め、やがて注ぎ口から白い湯気が勢いよく立ち上る。
ただお湯が沸くのを、何も考えずに待つ。
これまで忘れていた、その空白の時間そのものが、何より贅沢に感じられた。
日が完全に落ち、部屋の隅にある小さな暖炉に、マッチで火を灯した。
パチ、パチ、と乾燥した薪が爆ぜる乾いた音が、静かな雨音に溶けていく。
揺らめくオレンジ色の炎が、壁に大きな木の枝のような影を作っては、静かに揺らし、消していく。
ただ、じっと炎のゆらぎだけを見つめる。
頭の中を占めていた無数のノイズが、火の粉と一緒に、煙突の向こうの夜空へ吸い込まれていくようだった。
私はただ、深く息を吸って、深く吐き出した。
翌朝、目を覚ますと、雨はすっかり上がっていた。
窓の外には薄い朝もやが立ち込め、濡れた杉の木立が幻想的なシルエットを描いている。
窓を開け、冷たく澄んだ朝の空気を、胸いっぱいに吸い込む。
体の中に溜まっていた重たい澱が、静かに霧の彼方へとほどけていくのを感じた。
私は昨日より少しだけ軽くなった心で、また自分の道を、ゆっくりと歩き始める。